関ヶ原の戦い

石田三成本陣(笹尾山)より
家康最初の陣、桃配山方面を望む
石田三成本陣跡

決戦地跡 家康最後の陣跡1 家康最後の陣跡2

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撮影日 1999年7月13日
所在地 滋賀県不破郡関ヶ原町
関連リンク 関ヶ原町ホームページ





天下を分けた関ヶ原合戦とは

戦国時代の総決算とも言える関ヶ原合戦は、日本全土の各武将たちが生命をかけ、それぞれに二分し東軍の大将に徳川家康と西軍の大将、石田三成が激突したいわゆる天下分目の合戦です。
時は慶長5年(1600年)9月15日、夜は明けたが前夜からの濃霧のため見通しがきかない。午前8時頃になってようやく霧が晴れたので、井伊・松平が先ず進出して宇喜多の隊に向かって、戦端の火蓋が切られようとしていたが、これを見た福島の隊は遅れてはならないと、宇喜多の隊に戦闘の火蓋を切った。
かくて戦機を得た東軍右翼の黒田・竹中・細川等の隊は一斉に石田・小西の隊を攻撃。
左翼の藤堂・京極の隊も大谷の隊と交戦。関ヶ原全体は戦いの中に包まれ、戦いは一進一退、西軍がやや有利に戦う。
家康は、最初桃配山にあったが午前10時頃陣場野へ隊を進め、全軍に指揮をした。
松尾山の小早川秀秋は、正午頃反旗をひるがえし、大谷の隊を衝いて来た。次いで脇坂・朽木・小川等が小早川に同調し、三面攻撃を受けた平塚・戸田は相次いで討ち死にし、大谷吉継もついに自害して果てた。
小早川の裏切りで大谷の隊が潰滅すると、形勢は逆転し、次いで小西・宇喜多の隊も敗走し、石田の隊も良く奮戦したが、ついに敗走した。
最後に残った島津維新は、僅か200足らぬ兵で、維新を中に一団となって、敵中突破をし帰国した。
時に午後3時であった。
南宮山の西軍3万の兵は、家康に内応した吉川広家に阻まれて参戦の機会を逸してしまった。

家康はこの戦いの3年後、江戸に幕府を開きました。
信長とは同盟を組み、秀吉には従い、そして待ちに待った天下をついにこの合戦で手に入れました。
家康は徳川政権を磐石のものとし、この後徳川の天下は15代300年の長きに渡って続きました。








領地戦後処理

没収石数416万1084石、削封石数216万3110石、総石数632万4914石。内、150万石を家康直轄地とし、250万石から400万石に。
残りを東軍に属し、功労のあった大名たちに主に分配した。




詳細表
三河より東 尾張より西