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この城は伊勢盛時(北条早雲)が初めて城主になった城である。
伊勢盛時は明応三年(1494)に出家して早雲庵宗瑞と号するようになり、子の氏綱が北条氏を称した事から死後、北条早雲と呼ばれるようになる。
盛時は駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼り今川家に身を寄せたが、義忠の死後今川家の家督争いをまとめた功績によりこの城を与えられ、その後伊豆国を治めていた堀越公方足利茶々丸を、将軍足利義澄の母と弟の仇として討つという大義名分を得て滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城に移り、戦国大名へと成長した。
この地は今川・武田・北条氏の争奪の地で、元亀二年(1571)から天正十年(1582)は武田氏の領地となり、武田氏滅亡後は徳川家康の領する所となり、天正十八年家康の関東入封後は豊臣の臣中村一氏が在城、関ヶ原の戦い後は天野康景が一万石で入るが、後に問題を起こし改易となり城は廃された。
遺構は空堀・郭・天守台石垣などが残る。
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